二階最後の展示です。
この画像は雑誌やウェブでも見たことがあるんじゃないでしょうか。
タンクデザインのすべてでは無いと思いますが・・・
この廊下の先は立ち入り出来ないようになっていましたが、特別展示とかあるとオープンになるのかな?
ハーレーに乗って23年経ちました
二階最後の展示です。
この画像は雑誌やウェブでも見たことがあるんじゃないでしょうか。
タンクデザインのすべてでは無いと思いますが・・・
この廊下の先は立ち入り出来ないようになっていましたが、特別展示とかあるとオープンになるのかな?
こちらは展示プレート撮り忘れました。
おそらくサイドカーレースの展示だと思いますが、これって、ハーレーじゃないですよね?
エンブレムもインディアンですし、エアクリっぽい丸も左側に来ているし・・・
1935 VLD HILLCLIMBER SIDE-VALVE V-TWIN
このVLDによって非常に有意義な物理学的アプローチをする事が出来た。
延長されたフレームによって、安定性を増し、操縦性が高まり、ライダーが後方に振り落とされそうな危険性も無くなった。
タイヤチェーンはトラクションロスを少なくし、丘を駆け上る為の動力伝達を助けた。
そのような長所を持っていても、多くのライダーはクラッシュし、リタイアしていった。
クリティカルな事態に陥った場合はキルスイッチが作動した。
革製のリストストラップはマグネトーに接続され、ライダーが落車すると自動的に点火しなくなる仕組みだった。
そうでもないと乗り手のいないバイクは見物人や他のレーサーを巻き込んでしまうからだ。
ヒルクライマーは以上の4台で終わりです。
二階の展示レポートもあと二日で終了。
以降は一階の展示になります。
1932 DAH HILL CLIMBER OHV V-TWIN
ヒルクライムがダートラよりも人気が出るにつれ、HD社専属レーサーのジョー・ペトラリも、ますます優秀な成績を収め始めた。
彼は1930年代に5連続でナショナル・チャンピオンシップで優勝した。
彼が1932年のレースで栄冠に輝いた時に乗っていたバイクは展示のバイクのようだった。
オリジナルのエンジンは1929年に発表された45cuiのOHVだが、それからはかなりモディファイされている。
1930 SINGLE HILLCLIMBER OHV SINGLE
ヒルクライミングというスポーツは1930年代に花開いた。
(先ほどの展示では1920-30と言っていたんですが)
幾つかのコンペ(レース)が全米モーターサイクリスト協会の出資で行われ、さらに多くのレースが地方のクラブによって開催されていた。
1930年発行のHDマガジンの中の読者欄では、とあるエンスーが「いったい何回レースを企画するんだい」という質問をしていた。
(というくらい数多くのレースが開催されていたっつうことでしょう)
二気筒のヒルクライマーが一般的過ぎたので、あえてこの単気筒バージョンが作られたようだ。
エンジンは特注の500cc、BAFモデル。
(BAFモデルがなんだかわからないので時間があるときに調べておきます。)
さて、今回からはヒルクライマーです。
丘を駆け上る競技に参加していた車両ですので後輪はチェーン装着になっています。
1928 FHAD HILLCLIMBER OHV V-TWIN
1920-30年代に盛んだったヒルクライミングでは、ジョー・ペトラリが有名なレーサーである。
彼はHD社のヒルクライムおよびダートトラックのチームに所属していた。
他の有名どころとしては、スウェデ・アンダーソン、ハーブ・レイバーと言ったところだろうか。
※ハーブのニックネームは「ミルウォーキー・スカイロケット」だそうだ。
すべてのHD社の工場で生産されたヒルクライマーは最強のパワーを誇っていた。
この試作エンジンは上部、ヘッド上にバルブを、下部には二つのカムを配置し(要はOHV)、この組み合わせはかつて無い強さと高効率をもたらしてくれた。
暗所での撮影なのでフラッシュたいたり焚かなかったりで、似たようなアングルの写真が複数あります。
ご容赦を。
1936 EL FACTORY STREAMLINER OHV V-TWIN
1937年3月13日、フロリダのデイトナビーチにて136.183マイル/hで地上での最高速度記録を打ち立てたのがこのマシン。
創始者のウィリアム・ハーレーがナックルヘッドエンジンのプロモーションのために、このイベントを企画した。
ライダーはジョー・ペトラリ。既にレーシングの世界では伝説的なレーサーだ。
1923 EIGHT-VALVE RACER OHV V-TWIN
HD社エースエンジニアのウィリアム・オッタウェイとハリー・リカルドのコラボによって、この怪物は産声を上げた。
8つあるバルブで燃料と空気を大きく呼吸し、内燃機の爆発で大きな力を生み出す。
2カム構造はエンジンからホイールに動力を無駄なく伝達する。
このレーサーは軽々と100マイル/hを出すことが出来た。
最高級の技術を注ぎ込んだ結果、当然コストに跳ね返り、開発費は1500ドルにもなった。
※小林多喜二の著述に1924年拓銀での初任給70円と言うのが見受けられますので、当時の為替360円だとすると、銀行マン初任給の7700倍に相当します。
(と言っても今の初任給仮に20万円で単純計算すると15億円になっちゃいますので、そんなにはならんだろ、と思いますが)
さて、このマシンは伝説の英国人レーサー、フレディ・ディクソンの所有である。
フレディは1928年にはモーターサイクルを卒業しカーレースの世界に挑戦、栄冠を勝ち取っている。
1920 TWO-CAM RACER F-HEAD V-TWIN
1920はHD社のレース事業部にとっては良い年だった。
エンジニアはより改良を重ねたエンジンを開発し、ポンコツクルー達は勝利を手中に収めたきり手放しはしなかった。
低く位置されたサドルによって乗り手は空力的にベストなポジションをキープする事が出来たし、交換可能なスプロケでトラックの長さや欲しいスピードにあわせて乗り手が自由にベストセッティングを決める事ができた。
写りの悪い写真もう一枚おまけ。
1916 MODEL T FACTORY RACER F-HEAD V-TWIN
モーターサイクルがこの世に存在するやいなや、レースもまた存在した。
初めてのレースは非公式なものだったが、多くのメーカーはこのような競技が広告にはうってつけだと言うことを知り、やがて公式にスポンサー付きのチームを創設するのだった。
1914年にHD社は初めてレースチームを発足させた。
”ポンコツクルー”(wrecking crew)と愛情込めてニックネームを付けられた8名のメンバーがこのようなバイクでトラックを駆け抜けた。
モデルTは特注でしか手に入れられなかった。
このバイクはオイルの循環システムが(意図的に?軽量化?)欠落しており、ライダーが走行中でも手動ポンプでオイルを供給しなければいけなかった。