ハーレーダビッドソンミュージアム #016

1928 JH F-HEAD V-TWIN

= 展示プレート意訳 =
“2カム ツイン”としてよく知られるこのモデルによって、かつてはレーサーやヒルクライマー達だけが体験できたパワー領域を多くの二輪のエンスー達が経験できるようになった。
2つの独立回転カムにより実現した高圧縮により50馬力のパワーを吐き出した。
HD社は「今、誰もが高速、高馬力、高加速において世界記録レベルの2カムモーターサイクルのオーナーになれる」と広告した。

ハーレーでは初の2カムエンジンで、85-100mphでの高速走行が可能になっています。
また、このモデルから初めてフロントブレーキとエアクリーナーが採用されています。

ハーレーダビッドソンミュージアム #015

1926 BA OHV SINGLE

= 展示プレートの意訳 =
停滞しつつある二気筒市場への打開策としてHD社はAおよびB単気筒シリーズを発表した。
単気筒にすることで100ドルの原価改善になるだけでなく、燃費の向上、よりスポーティなパフォーマンスと言ったメリットがあった。
このシリーズは特に海外での売り上げが良かった。
それまでの標準であったサイドバルブに比べてよりパワフルなOHVエンジン初のストリートモデルだった事はAAおよびBAモデルにとってまったく障害とはならなかった。

1918年以来の単気筒の登場です。展示プレートには記載ありませんでしたが、
A, AAがサイドバルブの単気筒

博物館展示のB, BAがOHVの単気筒のようです。

これに遡ること1年、1925年にはティアドロップ形状のタンクが採用され、今のハーレーの基本スタイルがこのあたりで確立されています。

ハーレーダビッドソンミュージアム #014

1923 MODEL JDCA F-HEAD V-TWIN

= 展示プレートの意訳 =
1920年代初頭まではVツインがHD社のカタログの全ページを占めていた。
1923年に “Vees” はスポーツモデル2車種とシェアを分け合ったが翌年にはこのスポーツモデルは早くも消えていた。
いよいよ大衆化してきた二輪業界で勝ち残れるように、HD社はVツインエンジンの馬力、快適性、汎用性を重視するようになった。
Vツインエンジンは信頼性も高かった。900以上の警察署がハーレーを所有していた。
サイドカーやトライクのような追加オプションも実用性を向上させていた。

上記の Vees の意味が分かっていないのですが、何となく「V-TWINたち」を指し、スポーツの対向エンジンと区別したのかな?と思っています。
車両の色はBrewster green/ブリュースターグリーンだそうです。

展示プレートには記載ありませんでしたが、この1年前、1922年から74cui(1212.6cc)の新エンジンが搭載された車両(JD/FD)が登場しており、この車両もその中の1台と思われます。
ディーラーは67ヶ国まで拡大されています。

ハーレーダビッドソンミュージアム #013

1920 SPORT MODEL OPPOSED TWIN

= 展示プレートの意訳 =
このスポーツモデルは、HD社が女性を対象としたは初めてのモデルである。
宣伝文句は「淑女のアウトドアのお供」
英国のダグラス社によって作られたバイクはおそらくこの尋常ではないデザインにインスパイアされているに違いない。
この水平対向のツインエンジンは特記すべき特徴である。
このスポーツモデルは「キーストーンフレーム」を採用した初めての機種でもあり、エンジンそのものも荷重を支えるためのフレームの構成部品の一つとなっている。

水平対向というとBMWのようにシリンダーが左右に出ているのを普通はイメージするのですが、これは前後に出ており、一見すると単気筒のよう。一番下の写真でエキパイの取り回しから後方にもシリンダーがでているのかな?というのがわかります。
エンジン単体は後日登場します。

あと、特別記載はなかったですが、このモデルはフロントがガーターフォークになっていますね。

記事内にあるダグラス社のモーターサイクル。グーグルのイメージ検索結果のリンク貼っておきます。

HD社USサイトによるよ、1920年、HD社は世界で一番大きなモーターサイクルメーカーとなり、67ヶ国、2000のディーラーで購入できた、と記載があります。
Wikipedia US版によると、この年の生産台数は28,189台。

ハーレーダビッドソンミュージアム #012

1919 FUS ARMY F-HEAD V-TWIN

= 展示プレートの意訳 =
アメリカ政府は1916年のメキシコ国境での軍事活動において二輪車の活用に興味を示し始めた。
第八旅団の団長、ジョン・パーシング将軍は二輪車の迅速且つ軽快な機動力について記録を残している。
彼の推薦もあったのだろうか、アメリカ政府は第一次世界大戦の折、三分の一をHD社から購入しており、これはハーレーダビッドソンを「サム叔父さんの選択」とせしめた。
※ここで言うサム叔父さんの選択 = Uncle Sam’s Choice の意味がよくわからなかったのですが、
いろいろ調べてみると、Uncle Sam = 典型的なアメリカ人とか、アメリカ政府を擬人化したときに使われるようです。
United Statesもこちらもイニシャルは U.S.となります。

1917年は1/3と記載しましたが、1918年には生産の半分はUS軍向けとなっています。
一次大戦の終わりまでに米軍では約20,000台の二輪車が使われていましたが、その殆どがハーレーだったそうです。

ハーレーダビッドソンミュージアム #011

1918 MODEL J WITH ROGERS SIDECAR F-HEAD V-TWIN

= 展示プレートの意訳 =
1918年のMODEL J は1917年モデルの後継としていくつかの小変更が施されている。
従前はディーラー持込だったが、持ち主自身がクラッチのグリスアップなどメンテが出来るようになっている。
顧客が90ドルのロジャーズブランドのサイドカーを追加オプションで選択する場合、HD社は特別仕様エンジンを推奨していた。
そのエンジンは特に早くはなかったがサイドカーの重量でもストレスの無い様に、よりトルクフルとなるようセッティングされていた。

1917年は米国が一次大戦に参加した年であり、
HD社USサイトによると、1917年は1/3の車両が米軍向けに生産された。
HD社の一部門は軍の補給兵の整備訓練に協力をし、後に整備士学校となっている。

ハーレーダビッドソンミュージアム #010

1915 MODEL 11-J F-HEAD V-TWIN

この辺から寄贈オーナーのエピソード的なものの紹介も入ります。

= 展示プレートの意訳 =
冒険心と言うものは尽きないもので、1910年代のバイク乗りもより長く険しい土地を旅するようになった。
このモデル11Jはそう言ったニーズに応えるため、よりパワフルな2気筒エンジンと3速ミッションを搭載した。
この年エイヴィスとエフィー・ホッチキス母子はサンフランシスコとブルックリンの往復旅行の相方として11Jを選んだ。エフィー曰く、サイドカー付き11Jは「最高の相方」だった。

ここでミッションとサイドカーという言葉が出てくるのですが、HD社USサイトによると、
1914年は、
・純正サイドカー登場
・F-HEADシングルおよびツインモデルでクラッチとブレーキペダル装備となった。
・モデル10Fのみ2速ミッション装備。これはウィリアム・ハーレーの特許。
約2年の販売を経てディスコンとなる1915年モデルから改善版の3速ミッションへ置き換えとなった。

ハーレーダビッドソンミュージアム #009

1913 MODEL 9-E F-HEAD V-TWIN

ようやくVツインモデルのお目見えです。
前述のとおり1907年には世に出ていたようですが、リコールの記述もあり、改善版が1911年モデルからとなります。

= 展示プレートの意訳 =
1913年のラインナップは単気筒2機種、Vツイン1機種。
Vツインは高馬力タイプで険しい丘を登ることも出来たし、65マイル時の速度で走ることも可能だった。
また販売も急成長していた。
この市場要求に応えるためにミルウォーキーの Janeau 通りの工場にさらに5・6の建屋を増築した。
工場の総床面積は3月には30万平方フィートに達し、7分に1台の速さでバイクを生産できるようになった。

このVツインエンジン”F-HEAD”は出だしリコール等ありましたが、1929年まで主力のエンジンとして活躍します。

さて、HD社USサイトによると、この年レーシング部門が設立され、ウィリアム・オッタウェイがウィリアム・ハーレーのアシスタントエンジニアに任命されています。

また、前輪2輪の3輪車、フォーカー(Forecar)デリバリ・バンが登場しています。

※ネットから拾ってきました。

ハーレーダビッドソンミュージアム #008

二つ目の島(奥のほう)です。

ここには10台の初期HDが展示されています。

1912 MODEL X-8-A ATOMOSPHERIC-VALVE SINGLE

= 展示プレートの意訳 =
1912年は7種類のモデルが販売され、生産台数は4000台に届く勢いだった。
アメリカ国内および日本での販売のために、ほぼ200のディーラーが展開された。
そのような要求に応えるために Juneau 通りの新工場が着工した。
同じ年にHD社はアクセサリーとしては初めてとなるジャージを発売した。
二年のうちにアクセサリーの衣服の種類も大量に増やし、またスペアーパーツも多数販売された。

HD社のUSサイトによると、
この車両販売の2年前、1910年に現在おなじみのバー&シールドのハーレーロゴが初めて使われ、翌年1911年にUSでのパテント取得となっているようです。
海外への輸出は日本向けが初めてと記載ありますので、なにやら深いつながりを感じます。
日本で初期モデル見つかったりしないでしょうか。

1910年代初めは米国で約150の二輪メーカーが乱立していたそうですが、後半にはほんの一握りのメーカーしか残っていなかったとの事。
追ってフォードミュージアムの記事の時にその乱立して消えていった数社紹介したいと思います。

ハーレーダビッドソンミュージアム #006

1909 MODEL 5 ATMOSPHERIC-VALVE SINGLE

= 展示プレートの意訳 =
1909年はハーレーダビッドソンが初めて2車種以上をリリースした年である。
初の二気筒エンジンをラインナップに追加したが、残念なことにリコールとなった。
というわけで単気筒のモデル5が主要機種として残ったのである。
1909年モデルは、より長く旅が出来るようガソリンタンクが大型化されている。
この展示車両は例えばオイルタンクがガソリンタンクの下部に隠されているような試作車両かのごとき特長がある。

ちなみに初の二気筒のモデル名はモデル5D。

49.48cui(811cc), 45° Vツイン。
エンジンは通常F-HEAD(FLATHEADとは違いますよ)

Wikipediaの記載によると若干上記記述と違うのですが、V-TWINのプロトタイプは1907年にはシカゴオートモーティブショーに展示され、その後1910年まで生産されたとあります。
排気量も53.68cui(880cc), 7馬力。
811ccのモデルは1911年の改善モデルからとあります。