ハーレーダビッドソンミュージアム #011

1918 MODEL J WITH ROGERS SIDECAR F-HEAD V-TWIN

= 展示プレートの意訳 =
1918年のMODEL J は1917年モデルの後継としていくつかの小変更が施されている。
従前はディーラー持込だったが、持ち主自身がクラッチのグリスアップなどメンテが出来るようになっている。
顧客が90ドルのロジャーズブランドのサイドカーを追加オプションで選択する場合、HD社は特別仕様エンジンを推奨していた。
そのエンジンは特に早くはなかったがサイドカーの重量でもストレスの無い様に、よりトルクフルとなるようセッティングされていた。

1917年は米国が一次大戦に参加した年であり、
HD社USサイトによると、1917年は1/3の車両が米軍向けに生産された。
HD社の一部門は軍の補給兵の整備訓練に協力をし、後に整備士学校となっている。

ハーレーダビッドソンミュージアム #010

1915 MODEL 11-J F-HEAD V-TWIN

この辺から寄贈オーナーのエピソード的なものの紹介も入ります。

= 展示プレートの意訳 =
冒険心と言うものは尽きないもので、1910年代のバイク乗りもより長く険しい土地を旅するようになった。
このモデル11Jはそう言ったニーズに応えるため、よりパワフルな2気筒エンジンと3速ミッションを搭載した。
この年エイヴィスとエフィー・ホッチキス母子はサンフランシスコとブルックリンの往復旅行の相方として11Jを選んだ。エフィー曰く、サイドカー付き11Jは「最高の相方」だった。

ここでミッションとサイドカーという言葉が出てくるのですが、HD社USサイトによると、
1914年は、
・純正サイドカー登場
・F-HEADシングルおよびツインモデルでクラッチとブレーキペダル装備となった。
・モデル10Fのみ2速ミッション装備。これはウィリアム・ハーレーの特許。
約2年の販売を経てディスコンとなる1915年モデルから改善版の3速ミッションへ置き換えとなった。

ハーレーダビッドソンミュージアム #009

1913 MODEL 9-E F-HEAD V-TWIN

ようやくVツインモデルのお目見えです。
前述のとおり1907年には世に出ていたようですが、リコールの記述もあり、改善版が1911年モデルからとなります。

= 展示プレートの意訳 =
1913年のラインナップは単気筒2機種、Vツイン1機種。
Vツインは高馬力タイプで険しい丘を登ることも出来たし、65マイル時の速度で走ることも可能だった。
また販売も急成長していた。
この市場要求に応えるためにミルウォーキーの Janeau 通りの工場にさらに5・6の建屋を増築した。
工場の総床面積は3月には30万平方フィートに達し、7分に1台の速さでバイクを生産できるようになった。

このVツインエンジン”F-HEAD”は出だしリコール等ありましたが、1929年まで主力のエンジンとして活躍します。

さて、HD社USサイトによると、この年レーシング部門が設立され、ウィリアム・オッタウェイがウィリアム・ハーレーのアシスタントエンジニアに任命されています。

また、前輪2輪の3輪車、フォーカー(Forecar)デリバリ・バンが登場しています。

※ネットから拾ってきました。

ハーレーダビッドソンミュージアム #008

二つ目の島(奥のほう)です。

ここには10台の初期HDが展示されています。

1912 MODEL X-8-A ATOMOSPHERIC-VALVE SINGLE

= 展示プレートの意訳 =
1912年は7種類のモデルが販売され、生産台数は4000台に届く勢いだった。
アメリカ国内および日本での販売のために、ほぼ200のディーラーが展開された。
そのような要求に応えるために Juneau 通りの新工場が着工した。
同じ年にHD社はアクセサリーとしては初めてとなるジャージを発売した。
二年のうちにアクセサリーの衣服の種類も大量に増やし、またスペアーパーツも多数販売された。

HD社のUSサイトによると、
この車両販売の2年前、1910年に現在おなじみのバー&シールドのハーレーロゴが初めて使われ、翌年1911年にUSでのパテント取得となっているようです。
海外への輸出は日本向けが初めてと記載ありますので、なにやら深いつながりを感じます。
日本で初期モデル見つかったりしないでしょうか。

1910年代初めは米国で約150の二輪メーカーが乱立していたそうですが、後半にはほんの一握りのメーカーしか残っていなかったとの事。
追ってフォードミュージアムの記事の時にその乱立して消えていった数社紹介したいと思います。

ハーレーダビッドソンミュージアム #006

1909 MODEL 5 ATMOSPHERIC-VALVE SINGLE

= 展示プレートの意訳 =
1909年はハーレーダビッドソンが初めて2車種以上をリリースした年である。
初の二気筒エンジンをラインナップに追加したが、残念なことにリコールとなった。
というわけで単気筒のモデル5が主要機種として残ったのである。
1909年モデルは、より長く旅が出来るようガソリンタンクが大型化されている。
この展示車両は例えばオイルタンクがガソリンタンクの下部に隠されているような試作車両かのごとき特長がある。

ちなみに初の二気筒のモデル名はモデル5D。

49.48cui(811cc), 45° Vツイン。
エンジンは通常F-HEAD(FLATHEADとは違いますよ)

Wikipediaの記載によると若干上記記述と違うのですが、V-TWINのプロトタイプは1907年にはシカゴオートモーティブショーに展示され、その後1910年まで生産されたとあります。
排気量も53.68cui(880cc), 7馬力。
811ccのモデルは1911年の改善モデルからとあります。

ハーレーダビッドソンミュージアム #007

1911 MODEL 7-A ATMOSPHERIC-VALVE SINGLE

= 展示プレートの意訳 =
1910年代は「静かなる灰色の仲間たち」の時代だった。
この「ルノーグレイ」色のモーターサイクルは本当に驚くほど静かだった。
その時代の広告には、
「この新鋭のハーレーダビッドソンは欠点がない — 潤滑油の使われている箇所の全ての稼動部品は適切なクリアランス(精度)で組み込まれているし、メカは通りの向こうからは聞こえないくらい静かだ。」
と描写されている。

この博物館の展示プレート、たまに叙事詩的な表現あり翻訳で頭悩ませるのですが、この灰色のことをルノーグレイと呼ぶというのがわかり、なんとか日本語にできたかな。
http://www.harleydavidson-paint.com/renault-grey.html

今まで紹介した車両で、
1906, 1909, 1911の3台がエントランスから上がった2階ホールの一つ目の島に展示されています。

1909&1011

ハーレーダビッドソンミュージアム #005

1906 MODEL 2 ATMOSPHERIC-VALVE SINGLE

= 展示プレートの意訳 =
並み居る競合が乱立する中でHD社の評判は耐久性と性能において際立っていた。
モデル2のデザインは”ループ”フレームと新規の大きなフライホイールが特徴。
当時のカタログには「我々はいかに安く、ではなく、いかに良く見えるかと言うところに努力している」と記載されている。

さて、Wikipedia の英語版やHD社のウェブページによると、
この翌年1907年にダビッドソン兄弟の長兄、ウィリアム・A・ダビッドソンがそれまで勤めていたミルウォーキー鉄道を退社し、HD社のツールショップの工場長として加わります。
会社も株式会社となり、株は4人で分配。
従業員は前年の倍の18人に。工場も倍の広さまで拡張され、約150台の車両が生産されました。
また、この年ウィリアム・ハーレーはウィスコンシン・マディソン大学を機械工学学士で卒業しています。

左から、
ウィリアム・A・ダビッドソン
ウォルター・ダビッドソン
アーサー・ダビッドソン
ウィリアム・ハーレー

写真はパブリックドメインのものを拝借

次の紹介は1909年モデルですが、フォードミュージアムに1907年モデルの展示があり、いずれどこかで紹介する予定です。

ちなみにループフレームについては、1903 Milwaukee Merkel motorcycle によく似たデザインとWikipedia に記載されていますので、ハーレーが最初というわけではなさそうです。

ハーレーダビッドソンミュージアム #004

さて、ここから一台一台紹介していくわけですが、HD社の歴史についておさらい。
Wikipedia の英語版より情報拝借。
1901
ウィリアム・シルベスター・ハーレー、自転車フレーム後付け・交換用の7.07cui(116cc),4inch フライホイールのエンジンをデザイン。
幼少期からの友人アーサー・ダビッドソンとともに約2年間、ミルウォーキー北部にある共通の友人、ヘンリー・メルク氏の工場にて勤務。

1903
アーサーの兄弟、ウォルターと3人で独立。
先の116ccのエンジンはエンジンだけでは丘を登れないほど非力のため、第2世代のエンジン開発が急務。
そこで開発されたのが24.74cui(405cc), 9.75インチフライホイールのエンジンとループ形状をしたフレーム・・・レーサー向けのプロトタイプはダビッドソン家の裏庭にある10 x 15フィートの小屋で産声を上げた・・・との事。


写真はパブリックドメインのものを拝借

下記写真は通称「シリアルナンバー・ワン」です。

1号機とはちょっと違います。理由は後述。
= 展示プレートの意訳 =
このバイクはちょっとミステリアス。
なぜなら・・・エンジンはハーレーダビッドソンの1号機として知られているものと一致せず。
※展示プレートには記載されていませんが、1号機のキャブはトマト缶を流用したもの、となっています。
フレームの刻印も年式は1905年となっており、オリジナルのものでは無いようです。
これらの奇妙な点が多数の議論の元となっています。
1990年代に、レストア専門家がナンバー「1」が刻印された複数の部品が使用されているのを発見し、このバイクの通称を「シリアルナンバー・ワン」にしました。
これにまつわる様々な疑問はこの「シリアルナンバー・ワン」を伝説たらしめました。
唯一はっきりしている点は、「シリアルナンバー・ワン」は現存する最古のハーレーダビッドソンだ、という事。

ウィリアムとアーサーの同級生だったヘンリー・マイヤー氏も1903年モデルを直接購入したとのことです。

この後1904年にはチャールズ・A・ラング氏によりシカゴに初のディーラーがオープン。


写真はパブリックドメインのものを拝借

“SERIAL NUMBER ONE”は「ハーレーダビッドソンミュージアム #003」の一番上の写真から見て右側の部屋に展示されています。

以下 SERIAL NUMBER ONE の別の写真

ハーレーダビッドソンミュージアム #003

券売所の反対側にある階段を上って二階へ。これが見学コースです。

私はストローラー(乳母車)があるのでエレベーターで上って一旦有料エリアの外に。
これが二階のチケットチェックから有料エリアを望み見た画です。
ナックル以前のモデルがずらっと。おもわず涙が出ます。

この左右・奥に展示室があり、右手には後述のSEIAL NUMBER ONEや旧車両が展示。
左手手前にはエンジンや3D映像等の展示、左手奥にはタンクの展示があります。

ハーレーダビッドソンミュージアム #002

さて、翌日入館。これが入り口。
一瞬扉だか壁だかわからず迷います。

中から扉を撮影。豪奢です。

券売所(価格は2008年当時)
大人(18-64) 16ドル
子供(5-17) 10ドル
子供(4才以下) 無料
学生・お年寄り 12ドル

入って正面でJDがお出迎えしてくれます。
これは実際試乗して写真撮影が可能です。
エンジンは掛かりません。

写真撮影のサービスもあり、後日貰ったカード(下の写真)に書いてあるURLにアクセスして写真をダウンロードできます。
・・・出来ますが、画質がむちゃくちゃ粗い。
是非自分のカメラでも撮影することをお勧めします。

入館チケット・大人用

入館チケット・大人用(別柄)

入館チケット・子供用

入館チケット・裏面

入館チケット・裏面(別柄)

当時は次男が4歳以下でしたのでフリー、大人2・子供1で42ドルでした。

尚現在は、

大人(18-64)     20ドル  (2008年 16ドル)
子供(5-17)        10ドル  (変更なし)
子供(4才以下) 無料        (変更なし)
学生・お年寄り  14ドル (2008年 12ドル)

で、若干値上がりしています。

次回に続く。